○横浜のパンの発達 開港当時、パンは外国人だけのものであったが、明治になると外国の領事館・商館・ 私邸などの下働きをしていた日本人が製パン技術を身に付け独立するようになり、 外国人向けにパンを作るようになった。 クラークの帰国により、居留地内のパン製造の中心であった横浜ベーカリーが打木彦太郎に 譲られると、横浜の邦人パン屋の信用はあがり、居留地・外国船舶だけでなく東京の高級 ホテルなどに出荷するようになり、横浜は、パンの一大生産地となった。







中川屋嘉兵衛の広告・・・パンの広告第一号。外国人向けの商売に目を付けた嘉兵衛はパンにとどまらず様々な商売を行なった。


パン屋出火の記事・・・パン屋出火の珍しい記事。防火の皮肉な注意が書かれている。








宮田屋・内海角蔵・・・打木らと横浜のパンを支えてきた功労者で、横浜邦人パン屋の先駆者と言われている。


打木彦太郎・・・幼い頃よりクラークの横浜ベーカリーに弟子入りした彦太郎は25才で店を譲られ、宇千喜商店を開業した。










横浜ベーカリー・宇千喜商店の広告・・・開業当時は客の殆どが外国人であったため外国人向けの広告を出している。


グランドホテル・・・明治3年に開業し、横浜を代表するホテルに成長する。横浜ベーカリーがパン納入していた。